097.「このまま夜明けまで」   (青薪)


 かくん、と自分の首が揺れた衝撃で目覚めれば、いつしかリビングで居眠りをしていたのだと、呆けた頭で理解する。
 少しずつ現実に戻り始めた意識の中で、左肩に感じる重さと温もりに、隣の人も眠っていることに気づく。
 ソファに座ったままの格好で、俺の肩に小さな頭をもたれさせて穏やかに寝息をたてている彼の姿に、我知らず頬がゆるんだ。

 もう何年も前のことだが、かつて彼は人前で眠ることを恐れていた。
 ひとりきりの自宅でさえ眠れない日々があったと、なんでもない昔話のように話してくれたのは随分と後になってからのことだった。
 けれど。
 今こうして、俺の隣で彼は深く眠りについている。


 春も間近というのに、吐く息の白さは濃くなるばかりの金曜の夜。
 九州での室長業務を終えてすぐ向かった先は、東京の薪さんの自宅。深夜の訪問となったにも関わらず、ひと月ぶりに訪れた俺を寝ずに待っていてくれた彼に、嬉しさと申し訳なさを噛みしめる。
 今週、関東も九州も捜査が特別たてこむことはなかったものの、薪さんは所長として遠方へ飛び回っていたため、せめて今夜は早めに休んでもらおうと思っていたところだったのに。
 そうして風呂上がりに何気なくつけたテレビで流れていた洋画に、つい見入ってしまった俺に付き合うように薪さんも隣に座って眺めだし、ほどなく二人そろって居眠ってしまったようだ。果たして俺が映画を見ていた時間は15分にも満たなかった気がする。しかも肝心要のラストシーンを寝落ちして見損ねるというお粗末な結果になってしまった。
 過去に、この映画の登場人物に自分と彼の関係を重ねたことがあり、だからつい当時の様々な思いが蘇ってしまい目が離せなくて。
 もちろん、そんなことは色んな意味で恥ずかしくて彼に言えるはずがない。雪子さんが口を滑らせてなければいいんだけど。

 この人の日頃の気苦労を思うと、居眠りですら起こすのは忍びなく、このままそっと寝室へ運んでしまおうと決めた。
 男性としては華奢な部類に入るその身体は、それでも決して軽いわけではない。けれど彼を抱き運ぶことが可能な自分の体格が、今はこの上なく有り難い。神様に感謝したいぐらいだ。
 寝室のドアを足で押し開け、真っ白なシーツの上にその身をおろしたところで、わずかに開く薄紅色の唇から掠れ声が漏れた。
 少しだけ身じろぎをした薪さんの、長い睫毛で縁取られた瞼がゆるりと開く。
「すみません。起こしちゃいましたか」
「・・・青いヤツに抱えて運ばれる夢を見た・・・」
「? 青木、じゃなくて?」
「さっき・・・お前が見せた、舞台の」
「ああ」
 ようやく合点がいった。

 今夜の訪問後、風呂に入るまでの短い時間を使って、会えなかったひと月分の出来事を少しだけ語り聞いてもらった。
 ほぼ俺の姪っ子の話題に終始してしまったが、彼女と観たミュージカル舞台が最高に楽しかったことを力説しながら薪さんへ見せたフライヤーに大きく写っていたのが、舞台の主役である青い魔人だった。

 彼の身体の上にシーツを掛けて、俺も隣へもぐりこむ。
 伸ばした腕で抱き寄せると、俺よりも小柄なその身体はすっぽりと腕の中におさまった。
 まだうつろな眼差しで素直に身を預けてくれている姿が愛しくて、もっと声が聞きたくて、ゆっくりと静かに問いかける。
「薪さんは、あの作品のストーリーをご存知ですか?」
「・・・ああ、ランプから出てきた奴が、なんでも願い事を叶えてくれるんだろ」
「それが、“なんでも”じゃないんですよ」
 少しおどけた口調で返すと、うつむいていた彼の頭が、ふと持ち上がる。
「一応ルールがありましてね。人を殺めること、死んだ人を生き返らせること、人の気持ちを操ること、そして願いの数を増やすのはダメなんです。それに、叶えてくれる願は3つだけ」
「なんだ、万能じゃないのか。ケチくさいな」
 夢のない台詞を吐いてこちらを見上げた彼の瞳と口元は、わずかに皮肉げな笑みを宿している。
「薪さんだったら、何を願いますか?」
「部下の能力向上」
 冷静な即答に、思わず息がつまり咳き込みそうになる。
 すっかり目覚めた様子の彼は「いや、こういうことは他力本願ではなく本人たちの努力に任せるべきだな」などと平坦な声で呟いている。
 あの、それ、わざわざ魔人にお願いしないといけないことですか?

「ほ、他には?」
 話を逸らすべく重ねて尋ねると、軽い溜息とともに漏らされた声が、薄衣越しに俺の胸をくすぐった。
「世界平和、とでも言っておくか」
「それは素晴らしいです。でも実現したら、俺たちの仕事は用無しになっちゃいそうですね」
「そんな理由での失職なら構わないだろう」
 そうですねと笑いを含んだ声で返すと、琥珀色の瞳が再びこちらを見上げた。
「青木はどうなんだ」
「俺はですね。まず家内安全。そして、毎日薪さんに会いたいです」
 正直な思いを口にしたのに、当の薪さんは何とも形容しがたい複雑な表情をしている。恋人に毎日会いたいと言われて通常見せる顔ではないと思う。
「おまえ、意外と夢見がちなタイプだな。まあ若いからな・・・」
「いえいえ、年齢関係ないですよっ。愛さえあれば」
「もっと他にあるだろう。捜査能力向上とか、昇進とか、部下の成長とか」
「薪さん、そんな・・・現実的な枯れたこと言わないでくださいよ。今日だって久しぶりに会えて俺、すごく嬉しいんですから」
「・・・泣くなよ」
「泣きませんよっ」

 強気に言い返したものの、ちょっと泣きたい心境に陥ったのは否定できない。情けない顔をしているかも知れない俺を見返す薪さんが、微苦笑を浮かべた。
「僕もだ。会えて嬉しい」
 その一言で、とたんに動悸が跳ね上がる。我ながらゲンキンなもので、彼を抱く腕に力と熱がこもるのを自覚する。
「・・・3つ目の願いはですね。薪さんが、悲しむことも傷つくことも泣くことも怒ることもなく、いつも穏やかに笑っていられる世界をつくることなんです」
「そんな刺激のない毎日おくってたら、あっという間にボケそうだ。お前、僕を若年性認知症にする気か」
「いやあ、薪さんなら大丈夫でしょう。俺も傍にいますし」
「創造主でもなければ無理だろ、そんな都合のよすぎる世界」
「ですねえ。でも、もしも叶うのなら、そのためなら何でもします」
「じゃあ、警察官やめれるのか」
「はい。薪さんの幸せに繋がるのな、らっ」
 言い終える前に、にゅっと伸びてきた手に鼻をつままれた。つまむどころか強く引っ張られ捻られている。痛い、と声に出して抗議できないのは腕の中から見上げてくる瞳の怖さに声を失くしたからで。あ、やばい、このひと怒ってる。ていうか薪さんから言い出したのに、そんな誘導自問みたいな真似カンベンしてください。
「そんな馬鹿なこと、二度と言うな」
「はい。すみません」
 鼻詰まり声での謝罪の後、俺の鼻を解放した細い手は、そのまま脇を通り背中へと回された。触れ合う体温が上昇していく。
「・・・何でも、するのか」
「ええ。辞職以外であれば、何でも」
「じゃあ」
 背に回された手がパジャマを掴み、ふいに薪さんの顔が近づく。息がかかるほどに寄せられた艶やかな唇が、小さく囁いた。
「キスしろ」

 はい、と囁きかえした唇を、彼に重ねる。
 ついばむように何度も軽く重ね合わせて柔らかな感触を味わった後、角度を変えてゆっくりと深く、深く口づける。
 それは決して長いキスではなかったけれど、彼の手に胸板を押されたところで唇を離した。
 薪さんの瞼は半分閉じられ、伏せた睫毛が琥珀の瞳を薄く隠している。睡魔に引き込まれているのか、あるいは蕩けているのか。その両方かも知れない。
 今夜は、これだけでいい。続きは明日の夜に。

「他にご要望は?」
 ふーう、と長い溜息とともに、薪さんの額が胸に押し当てられる。「眠い」と低い呟きが聞こえて、背に添えられた手が俺のパジャマを握りしめた。
「このまま夜明けまで、僕の抱き枕になれ」
「はい。仰せのままに」
 ちらりと見えた彼の瞳は、もう閉じられている。
 俺は微笑んで、腕の中の愛しい人が幸せな眠りにつけることを願い、あたたかな身体をそっと胸に抱きしめた。

 -おしまい-



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青木&薪(秘密-the top secret-)

青木の台詞「薪さんが悲しむことも~」から最後までの、一連の夢を見まして。
よし二次創作で書いちゃえと思いまして。
夢はもう少し不健全だったんですけど二次創作は健全に逃げました。

この台詞に行き着くまでの蛇足な話を考えるうち、ジーニーの3つの願いに絡ませちゃえ、あっダメだ、あの二人が一番に願うことなんて亡くなった人が生き返ることじゃん・・・この二人にこの話題はダメだろ・・・と色んな意味でヘコんでしまい。

でもアラジンだってあれだけ母さんと連呼しながらさほど気にせず他の願い事言ってるし(そりゃ秘密とは事情が全然違うけど)、じゃあ少しだけ先の未来の二人なら、こういう会話もできるのでは?と、えらく遠回りして書き出した話。←言い訳が長い。
本編での薪さんは「キスして」って言いそうだけど、原罪以降の薪さんは「キスしろ」って言いそう。

そんなわけで劇団四季ミュージカル「アラジン」ネタを趣味で絡めました。
主人公はアラジンですが主役はジーニーです多分。
瀧山ジーニーの愛らしさと素晴らしさは一見の価値ありなので是非「アラジン」見てください。
 
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073.「君には秘密」   (青薪)


 科警研の1階に位置するカフェテリアは午後ともなれば人もまばらで、その中で彼の長身はよく目立つ。
 果たして当人も自覚があるのか、観葉植物の高く茂った葉の陰に身を隠すかのように大きな背を丸めて座っているが、結果として目立つものは目立つので無駄な努力に終わっている。
 でもまあ、単に上司に叱られて落ち込んで猫背になってるだけかもねと勘繰りつつ、ぼんやり頬杖をつく彼の肩を背後から軽く叩いた。
 振り向いた小さな目が驚きで丸くなるのを見て、つい笑いが漏れる。

「久しぶり、青木くん。相席、いいかしら?」
「は、はい」

 歯切れは悪いが了承をもらい、私は彼の正面の席へと座った。
 久々に合わせた顔は、今や室長としての風格と落ち着きが感じられる・・・と思いきや、眼鏡の奥で落ち着きなく動く瞳と強張った口元が全て台無しにしている。

「九州から遠距離出張? 大変ねぇ」
「はい、先ほど会議が終わったところで。お久しぶりです、雪子先生」
 やっと見せてくれた笑顔も声のボリュームも、若干控えめで。さらに彼は声をひそめて、周囲を窺うような仕草で上目遣いに私を見る。
「あの、・・・いいんですか?」
「なにが? 元カレと相席したらいけないの?」
 あっけらかんと答えてみせるけれど、彼は困ったように眉を下げ続けている。相変わらず真面目だなと可笑しくなって、また、くすりと笑いが漏れた。
「大丈夫よ。ここは異動も多いんだから当時を知ってる人も今じゃ少ないって。それに私、ダンナには信用あるし。そもそも真昼間からこんな人目に付く場所で、やましい逢引きするわけないじゃない」
「それは、そうですが」
 ようやくオーダーを取りに来た店員にはコーヒーを頼み、先程の彼をまねて頬杖をつきながら、少し意地悪く笑ってみせる。

「それとも。つよし君が妬いちゃうからマズイ?」

 途端、目の前の顔が火がついたように赤くなった。かと思うと瞬時に青く変わり、さらには再び真っ赤に染まる。
 おもしろい。
「ゆゆゆゆ雪子さん、あのその」
「ちょっと、そんなに顔色変えたら周囲に私たちのこと勘ぐられるじゃないの」
 顔面蒼白で冷や汗を流し続ける彼が少し可哀想になったので、できるだけ優しく穏やかに小声で囁いてあげた。
「付き合ってるんでしょ、あなたたち。やーっとくっついたのねぇ。私まで誤魔化せると思わないでよね」
 ていうか誤魔化したいのなら、その分かりやすすぎる反応をまず改善すべきでしょう。こいつ、これで本当に室長つとまってんのかしら。
「なななななんで」
「そりゃあ短くも浅くもない付き合いですもの、分かっちゃうわよ。女の勘をなめないでね。あ、もちろん誰にも言わないから安心して」
「はあ・・・」
 幸いにも彼の顔色が戻ったところでコーヒーが届き、ひとくち含んで芳香を楽しむ。お互いに少し落ち着いたところで、声をかける理由のひとつとなったことを尋ねてみた。

「で? そんな幸せいっぱいの青木くんが、何か悩み事?」
「え、えっ?」
「さっき、随分とアンニュイな表情してたから」
「えっ」
「私でよければ相談にのりましょうか?」

 それは純粋に、今では大切な友人である彼に、微力ながらも何か助言できればとの思いからの提案だった。つよし君の私生活とか弱みを聞けるかも、なんてヨコシマな期待も無きにしも非ずだったけど。
「・・・実は」
 はあ。と、まさにアンニュイとしか言いようのない溜息をついて、彼は手元のカップを見つめて呟くように切り出した。

「薪さんて、いつから俺のことを好きになってくれたのかなって」

 ・・・話してごらんと言ったのは確かに私だけれど。それを、私に、言うかね?
 彼の伏せた目は、カップへと注がれ続けている。だから私の微妙な表情には気づかかぬまま、その風貌に似つかわしくない恋に悩む乙女のような風情で再び溜息を漏らした。
「薪さんに聞いても、答えてくれないんです。「覚えてない」って言って、はぐらかして」
「そりゃ・・・そうでしょうね」
 あの男が素直に答えたら、それこそ驚天動地だわ。
「雪子先生。以前、俺に言いましたよね。薪さんが俺のことを大好きなのがわかる、って」
「ええ・・・」
 “大” 好きとは言ってない。
「じゃあ、雪子先生ならご存知ですか。薪さんがいつから俺のこと大好きだったのか」
「そんなの、本人にしかわかんないことでしょ」
「そうですけど、でも雪子さんはどう思われますか!?」
 必死か。
 いやいやいや、もう両想いなんだから、そんなのどうでもいいんじゃないの?
「なによ、ケンカでもしたの? お前なんか嫌いだって言われた?」
「いえ、そういうわけでは。ただ、薪さんは何も言ってくれないから。気になるんです」
 えっと、きみが私と付き合ってる時、一度も聞いてこなかったわよねそんなこと?
 なんで相手があの男だと、そんな気怠い溜息つくほど気になるのよ?

 控えめに言っても物凄く鬱陶しい状況ではあるけれど、相談にのると言ったのは私だし今更突き放すわけにもいかないし。
 もう責任感なのか偽善心なのか自分でも分かんないけどとりあえず耐えてみて、手に負えなくなったらつよし君を呼び出してこの男を連れ帰ってもらおう。

「うーん。なんとなく思うところはあるけど、でも勝手なこと言ってつよし君に怒られるのイヤだもの。今や一応上司だし」
 まあ、こんなことを相談できる相手、この地球上で私ぐらいしかいないんだろうけれど。
「そもそも私があなたと初めて会ったのは、あなたが第九配属になって一年後よ。それ以前のことは知らないし」
「さすがに、“それ以前”ではないと思うんですが」
「“それ以前”だったら、どうするの?」
 無意識のうちに、声のトーンが落ちていた。私の声の変化に気付いた青木くんが、俯いていた顔を上げる。

「私が言うことじゃないのは百も承知の上よ。でもね。もし“そう”だったら、つよし君は自分の気持ちを押し隠して私たちを祝福してくれたことになるのよ? そんな彼に、あなた、よりにもよって定例会議の直前に婚約報告したのよ? そのとき彼がどんな思いだったか、それを今更掘り起こすつもり? 彼のことだから、絶対あなたには知られたくないとは思わない?」

 間抜け面の鼻っ先に人差し指をつきつけて、息継ぎもせず一気にまくしたてた。それでも一応、声を抑えることだけは忘れずに。
 目の前の間抜け面は、ただぽかんと口を開けて私を見返している。こいつ、ちゃんと理解できたのかしら。

「本人が言いたがらないものを、無理に聞き出さない方がいいと思う」
「そう・・・ですかね」
「そういう自分はどうなのよ」
 言い終える前に、猛烈な後悔に襲われた。しまった。別に聞きたくない。この男の、あの男に対する惚気話の鬱陶しさなんて聞かずとも分かってるのに。
 かくして眼前の大男は一転、頬を染めて何の躊躇もなく嬉し気に口を開きだした。・・・ああ、やっぱり話すのね。話したいのね。

「以前にも少し、雪子さんにはお話ししましたけどね。俺、最初っから薪さんのこと尊敬してたし好きでした。でも、その「好き」って気持ちが尊敬なのか恋慕なのかは分からなくて自覚できなくて。昔、薪さんを乗せたヘリが墜落しそうになった時、少々ラリってたとはいえ俺は薪さんと心中ならいっかーって思ったのに、薪さんは“死ぬなら家で一人で死ねバカ迷惑だ”なんて冷たくてですね。そんな冷たかった薪さんが、一体いつ俺のことを好きになってくれたのか知りたいじゃないですか!」

 ・・・そんな心中、婚約当時の私だって御免だ。つよし君も、私の知らないところで色々苦労してたのね。
「結論として私が言えることは、まぁ、本人が言う気になるまで待てば?」
「えーっ、待てないから相談してるんじゃないですか」
 190cmの立派なガタイした28歳警視殿に「えーっ」とか言われても、元婚約者の贔屓目で見ても全然かわいくないし同情する気にもなれない。むしろ殴りたいかも。
「つよし君は、あなたには秘密にしておきたいんでしょ。どんな恋人だって夫婦だって、秘密の1つや2つはあるものよ」

 いまだ腑に落ちない表情を続ける彼の後方に、見知った2つの人影を見つけた瞬間、自分でも驚くほどの安堵に包まれた。
 咄嗟に手を振ると、気付いた2人が進行方向をこちらへと変え近づいてくる。そして不思議そうに上半身を振り返らせた青木くんが、見事に硬直する。
 ほどなく会話できる距離まで近づくと、先程までの話題の主である我らが上司はいつも通りの冷静さで「何か?」と一言だけを放つ。
「今ね、あなたの部下から悩み相談を受けてたんだけど」
「わーっ!? 雪子先生!?」
「悩み?」
 眉を寄せる彼の背後で、その腹心の部下たる関東室長は若干の汗をかきつつ無言で状況を見守っている。とばっちり気味で少し気の毒だけど、まあいいか。

「私はただの監察医でカウンセラーじゃないし、力不足だったわぁ。上司として責任もって、つよし君が聞いてあげてくれる?」
 にっこりと友好的な笑顔で伝えたつもりだったのに、対する男3人の表情と顔色は芳しくない。・・・あら?予想してた反応と違うわね。もしかして私が思ってるより何だか色々とこじれてる?

「青木」
「はいっ」
「用が済んだなら、さっさと九州に帰れ。お前のくだらん愚痴こぼしに、東京の、第一の、監察医を付き合わせるな」
「すみません・・・いえ、あの、偶然久しぶりに雪子先生にお会いしたのでご挨拶をですね・・・」
「そうそう、挨拶と世間話の一環で・・・あらら、もうこんな時間。私、もう行くわね」
 恐縮する青木くんにコーヒー代を無理矢理受け取らせ、気難しげに腕組みをした上司の横を通り過ぎざま、その憎たらしいほど綺麗な横顔に小さく囁いた。

「ちゃんと聞いてあげてね? 「覚えてない」とか冷たいこと言わないで」
 冷たく細められていた彼の瞳が、二秒の後には大きく見開かれ、逆にこちらが驚く羽目になった。あ、今のだけで何のことか分かっちゃうんだ、さすがの記憶力と洞察力。
 呼び止められることもなかったのでそのまま数歩進んだところで、さすがに好奇心が抑えられず振り向いてみると。
 椅子にはりつけられたように微動だにしない青木くんへ、かの上司が鋭利な視線を突き刺しているのが見て取れた。あそこだけ空気が凍りついてる気がする。しかも青木くんは微かに震えている。
 え、あの二人、ほんとに付き合ってるのよね? 上司部下どころか、親分子分にしか見えないんだけど大丈夫?

 二人の傍らで沈黙を続けていた関東室長が、ようやく金縛りがとけたように場を取り成しはじめ、射殺すような視線をおさめた彼は踵をかえしカフェテリアから立ち去っていく。その真っ直ぐな背中をあたふたと追いかける長身を見送るうち、ひとりでに苦笑が漏れてきた。

 大体ね。あのつよし君に選ばれておきながら、あんなくだらない悩みでクヨクヨするなんて、どんだけ贅沢なのか自覚なさすぎるわ。
 そもそもこの私を振った二人なんだから、この際ちょっとぐらい拗れてもらってもバチは当たらないはずだ。でもどうせすぐ仲直りするんでしょ、つまんないわね。
 少しだけ意地悪な考えがよぎって肩をすくめると、ひとり取り残されていた関東室長と目が合った。
 彼の顔に浮かんでいたのは苦笑ではなく、「やれやれ」と言いたげな呆れと疲労まじりの諦観だったけれど。お互い軽く会釈をした後、それぞれの向かう先へと足を向け、カフェテリアを後にした。

 -おしまい-



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青木&薪(秘密-the top secret-)

奇跡的に公式で青薪くっついたとしても、薪さんは自分がいつ青木を好きになったのか死んでも言わないだろうなと思います。
雪子さんが都合のいいモブ扱いになってしまいごめんなさい。
今後、青木は雪子さんを「黒田先生」「雪子先生」「雪子さん」のどれで呼ぶのか気になります。
さすがにもう「雪子さん」呼びはしないと思うんですけど、あの男のことだから分かんないなあ。

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063.「彼のネクタイ彼女のルージュ」   (青薪)

 いつもの通り明朗快活に訪問の挨拶を告げると、すでに顔なじみとなって久しい職員たちは笑顔で迎えてくれる。
 その笑顔が最近は苦笑と愛想笑いの二種類へ変貌しつつある気もするが気のせいにしておこうと、持ち前のポジティブ思考で青木はひとり頷いた。
 もはや作り笑いすら放棄した複雑きわまりない微妙な表情で「お前また来たのか先週来たばっかだろ暇なのか九州どうなってんだ」と言外に物語っている岡部に九州土産を手渡して、青木は寛ぐようにスーツのボタンを外しながら本日の訪問理由を述べる。
「第八管区のお客様のアテンドで東京に来ましてね。先程、成田でお見送りを終えたところで。時間があったのでご挨拶に立ち寄らせていただきました」
 それは確かに事実なのだろうし至極もっともな理由に聞こえるが、いやいやいや見送り終えたらさっさと九州帰れよ何で成田の隣にあるわけでもない他管区に立ち寄るんだよ呼ばれてないし用もないのに。と喉まで出かかった言葉を年の功と優しさで飲み込んで、しかしふと視線を下げた岡部は瞠目した。
「あ、あお、おま」
 どもりながら口を開閉している岡部と、彼の手から土産を受け取るべく近寄った波多野までもがこちらを凝視したまま絶句し動きを止めている様子をおかしく思わないでもなかったが、まあいいかと受け流し、青木は「薪さんにご挨拶してきます」と当然の行事のように告げて所長室の扉をノックする。
 扉の向こうから返された声に胸を高鳴らせつつ、「ちょ、待て、あお」という岡部の制止を広い背中で跳ね返して、彼は足取り軽く所長室へと踏み入った。


「失礼します! お久しぶりです、薪さん」
 扉が開くと同時に聞こえた声に、薪は思わず書類から顔をあげた。開口一番、
「お前、何しに来た?」
 驚きと呆れと冷淡をバランスよく混在させた声色と表情をもって、にこやかに近づいてくる部下を見返す。
 この、綺麗な顔をして口は悪い上司兼恋人からバカと評されたこと数知れずな青木だが、「あなたに会いたくてきました!」とバカ正直に答えるほどにはバカでないため、先ほど岡部へ伝えたのと同じ建前理由を述べる。
「そうか・・・しかしお前、さんざん第三管区に来すぎなんだから、今さら挨拶の」
 言葉が不自然に途切れた。
 青木が不思議そうに「薪さん?」と問いかける前で、薪の大きな瞳はただ一点を凝視している。
 もともと柔らかくもなかった彼の視線が徐々に冷ややかさを纏い、白いものへと変化していくのが青木にも見て取れる。
 あれ? この反応、さっきの岡部さんと波多野に似てるような? と妙な不安をおぼえつつ、その視線の先をたどると自分の腹部あたりに行き着いた。顎をひき下を向くと腹の前に垂れ下がる紺色のネクタイの、先端近くに何やら汚れが付着していることに気付く。
 よくよく目をこらすとそこにくっきり浮かんでいるのは、人の唇を形どった真っ赤な口紅の跡。いわゆるキスマーク。
 数秒の思考停止の後、我に返った青木が顔をあげた先では、あきらかにドン引きしている上司の姿が確認できた。
「お前・・・そんなものつけて今日一日歩き回ってたのか?」
「まさか! ・・・あっそうか、ずっとスーツのボタン留めてたから隠れてたんですよ位置的に。だから全然、気づか・・・なく・・・て」
 ようやく自分の置かれた状況に理解が至った青木の声が徐々にしぼみ、ついには止まる。
 成人男性のネクタイに真っ赤なキスマークがべったり付いていれば、そこから導き出される下世話な結論はただひとつ。
「ち、違います薪さん、これ、違うんです誤解ですっ」
「・・・お前ほんとに何しに来たんだ? わざわざ女遊びの物的証拠を僕に見せつけに来たのか?」
「とんでもない! 遊んでません! 俺がそんな器用なことできないって御存知でしょ!?」
「そんなことまで御存知ではない」
 浮気疑惑の浮上は世の恋人たちにとって一種の通過儀礼なのかも知れないが、しかしこれほど身に覚えのなさすぎる疑いをかけられるなんて納得いかない勘弁してくれと青木は声にならない悲鳴を上げる。
「まあ、お前も若い男だから仕方ないだろうが」
「あっ薪さん、俺が浮気したと思ってますね!?」
「僕が言うのもおかしな話だが、そういうことは、あまり人目につかないように上手くやれ」
「だから違うんですって。これ、あの、舞なんですっ」
「・・・そうやって、なんでもかんでも子供のせいにするのはよくないぞ?」
「本当なんですよ、舞が・・・ちょっ薪さん、無視してモニター見始めないでください、俺の話をきいてください!」
 190cmの大男が本気で泣き出しそうだったので、形の良い眉をしかめつつも薪は仕方なく話を聞いてやることにした。結局自分はこの男に甘いのだと、ほとほと嫌気がさしながら。


 かくして顔面蒼白かつ必死の形相をした青木の力説によれば、彼のネクタイに口紅跡を付けたのは6歳の姪だという。
 彼とともに暮らす姪の舞が最近おしゃれに興味を持ち始め、お化粧ごっこに夢中らしい。
 青木家の女性といえば舞以外には青木の老いた母親のみだが、舞にとっての祖母である彼女の化粧品を時々借用し鏡の前で楽しむ姿は本当に可愛らしく、これは将来絶対美人になるぞと頬を緩めて抱き上げた青木のシャツへ厚塗りの口紅とファンデーションが見事に付着した時もまあ不注意だった俺が悪いんだし可愛いからいっか、と締まりのない顔のまま甘く妥協していた。
 だがしかし。まさか大人の見ていない隙に、よりにもよって仕事用ネクタイにこっそりキスマーク付けるなんて一体どこでそんなこと覚えてきちゃったんだ舞?と嘆いてみるが、そういえば先週見たTVドラマで同様な場面があった事に思い至り、女の子ってああいうのに憧れるんですかねえ?と眼前の上司に尋ねたならば返事の代わりに白けた視線が返されて、青木は思わず目を逸らした。


「・・・以上です。ご清聴いただきありがとうございました・・・」
 判決を待つ罪人のような風情で面を伏せる部下を前に、薪は椅子の背に身を預け、長い足を組みなおした。
 これが他の人間であれば「つくならもう少しマシな嘘をつけ」と一蹴するところだが、この男の場合、まあ疑いようもなく本人の弁どおりなのだろう。日頃の人徳の成果と言うべきか、ともすれば第三管区職員全員が「ああ、そんな理由なら仕方ない」と目尻を下げあっさり納得しそうだ。
「数日前にも一度、他のネクタイにやられちゃいまして。それは着ける前に気付いて事なきを得たんですけど。あの時、きちんと厳しく叱っておかなかったのがダメでしたね・・・」
 あぁ絶対岡部さんたちにも誤解された~と嘆きの声を吐き出した後、おずおずと薪の機嫌を窺ってみる。
「・・・わかっていただけましたか?」
「わかった。そういうことにしといてやる」
「だからっ、俺は浮気なんてしませんって!」
「早く岡部たちの誤解もといてきた方がいいんじゃないか?」
 暗に退室を促すような言葉を口にしながら薪は椅子を回転させ既にモニターに向かっている。そんな恋人のつれない背中へ、青木は思いきって先程から気にかかっていた事を問うてみた。
「薪さん。・・・もしかして、妬きました?」
「寝ぼけたことを言ってないで、お前さっさと九州帰れ」
「さっき不機嫌そうだったのは、妬いてくれたからですよね? ね?」
「うるさ」
 い、と続くはずだった言葉のみならずキーボードを叩く指までも止まったのは、背後から回った腕に抱きすくめられたからだ。
「薪さん。好きです」
 聞き飽きた台詞が暖かさをもって耳朶に届き、振りほどく気も失せて薪は肩から力を抜く。
「知ってる。みんなが僕を好きなんだろ?」
「えっ」
 思わぬ返しに声は怯むが腕の力は緩まない。
 それはそうですけどでも今のはそうじゃなくてもう薪さん分かってるくせに、とぐだぐだ続く呟きを耳元で聞きながら、ほんの少し首を後ろへ振り向かせたなら。
 微かに感じ伝わる相手の体温が耳から頬へ、次いで唇のそばへと移動する。
「好きですよ」
「知ってる」
 二人、睦言のように同じ言葉を繰り返して。
 温かな息が互いの口元を掠め、自然、惹かれるように寄せ合う唇が重なっていく。そして青木の指がそっと触れた、白い貝殻のような耳はカチリと聞き慣れた音を捉える。
「薪さん! やっと出ましたよ例の画が     
 ガッ、ゴッ。
 と鈍い音のした方向を、大きく扉を開けた岡部が見やれば。モニター前に立つ薪の背後では、やけに遠くまで飛ばされた椅子の隣で、青木が床に長身を投げ出し仰向けにひっくり返っている。
「ど、どうした青木?」
「どうした岡部」
「ああ、薪さん。昨日から捜査開始した例の事件、画が出ました。凶器と思われるものも映ってます。難航するかと思いましたが、これなら早く決着つきそうですよ」
「わかった。それから、一応ノックぐらいしろ」
「すみません、急いでたもので・・・青木、なんで寝てるんですか?」
「僕が立った拍子に、椅子がぶつかって転けたらしい。そんな邪魔なところに突っ立ってるからだ」
「はあ。あっそういや青木、おまえ、そのネクタイ何だ!?」
「痛てて・・・薪さん、椅子、ひど、思いっきり激突・・・え? ネクタイ?」
「来客接待でキャバクラでも行ったか? 薪さん、大目に見てやってください。こいつまだ若いんで、たまにはハメはずすことも」
「違いますよ! 薪さんには今ちゃんと説明しまし、っ痛ぁ・・・」
「岡部。すぐに行くから、画を見れるよう準備しておけ」
「はい」
 神妙に頷いた岡部が退室すると、薪は未だ胸と腹をおさえてうずくまる青木を通り過ぎ、放置されていた椅子を定位置へと戻す。
「まだそんなところに転がってるのか。邪魔だ。もう帰れ」
「はい・・・」
 いててと呻きながら起こした長身を当然のように近寄せてくる青木の前へ、手のひらを突きつけ押し止める。
「それ以上近づくな。ネクタイの汚れが付くだろう」
 正論で拒まれ、行き場を失った長い両腕が悲しげに垂れ下がる。
「この汚れ、もう落ちないだろ。ていうかスーツの裏側も汚れてるんじゃないか」
「ですね・・・薪さん、あまり引っ張らないでください、少し苦しいです」
 諸悪の根源であるネクタイを手にとり眺める薪が、散歩中の犬を導くかのように微妙に力を込めてぐいぐい握り引くため青木の首元は物理的にじわじわと締まっていく。弱々しく抗議の声を上げると、ギロリという擬音が似合いそうな目で一瞥された後、その細い手に更なる力が込められた。
「ぐぇっ」
 首を絞められた蛙のような声を上げて身体をくの字に曲げれば、青木の耳朶を柔らかな唇がかすめる。
「お前が僕を妬かせようなんて、100年早い」
 からかうような声が甘い吐息とともに耳へ滑り込み、効果覿面に青木の動きと呼吸が完全停止する。
 あっさり身を離した薪から「お前、岡部の誤解とかなくていいのか?」と至極親切な助言をうけ、はたと正気を取り戻すが何だかまだ頭がくらくらしている。さっき胸と腹と尻はしこたま打ったけど頭は打ってないはずなんだけど。
「そういや岡部さんだけじゃなく、波多野にもすごい目で見られたんですよね、実は」
「男より女の方が厳しいからな、そういうの。もう波多野はお前の話なんか聞く耳もたないんじゃないか」
「ええっ。やばっ、早く弁解してこないとっ」
 しかし急ぐべきはずの青木は、数歩進んだ先で足を止め振り返る。薪が訝しげに見返す前で、先程まで狼狽の色を濃くしていた黒い瞳は今や真剣さを帯び、それでも少しだけ目を泳がせながら口を開く。躊躇いがちに何を言うかと思えば、
「あの。俺が好きなのは薪さんだけですからね」
「知ってる」
 ああ、知っている。
「早く行ってこい」
 知っているから、だから妬いたりするものか、今さら。バカ。
 胸中だけでそう言い返して、慌てて駆け出してゆく広い背を追うように、薪は所長室を後にした。

 -おしまい-
 

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059.「雨だれ」   (青薪)

 モニタールームから出て廊下の角を曲がると、冷たい突風が前髪を浮き上がらせて薪は思わず目を閉じた。
 前方を見やると、階段の踊り場の窓が開け放され、雨風が吹き込み床を濡らしている。
 今の時刻、すでに科警研職員の大半は退庁している。窓の施錠を怠った奴は誰だまったく、と苛立ちを覚えつつ、服と鞄を濡らさないよう慎重に近づいた窓から見えた景色の中に、見知った顔があった。
 薪の職場である法医第九研究室が入る建物の、一階エントランス。その軒先には眼鏡をかけた長身の男が立ち、途方に暮れた顔で鉛色の空を仰いでいる。仰いでいるだけで、いっこうに動き出す様子がない。
「・・・?」
 薄暗い雨越しに目をこらすと、男が手に抱えているのは鞄のみ。傘を持っていない。
 今朝は晴れていた。夕刻になり降り始めてきたのだ。おそらく彼は天気予報を見損ね、傘を持参し忘れたのだろう。
 薪は肩をすくめ、手早く窓を閉めた。そのまま真っ直ぐ、エントランスをめざす。ほんの少しだけ、いつもより早めの歩調で。そして目的地へと差し掛かった時、
「青木さん」
 女の声が聞こえた。
 何故かその場で足を止めてしまった薪は、不本意ながら柱の陰から覗き見る形になる。
 一人の若い女性が駆け寄ってくるのを、青木は人懐こい笑顔で迎えた。親しげな雰囲気で何やら会話を交わしているが、距離もあり雨の音に邪魔されて、声は聞こえない。薪の位置からは読唇も不可能だ。
 女性は薪に背を向けているため表情は見えないが、身振り手振りをまじえ青木に話しかけている。そして、手に持ったピンク色の傘を胸の高さまで持ち上げた。要するに、自分の傘に入っていかないか、と誘っているらしいことが薪にもわかった。
 あのお人好し男のことだ、折角の親切な女性からの誘いを無下に断ることはしないだろう、と半ば確信のように思った。ちょうど助かって良かったじゃないか。
 しかし青木は笑顔で、首を横に振った。次いで、「ありがとう」という形に唇が動く。
 そして彼が何か二言三言を告げると、女性は、薪にもわかるほど肩を落として、傘をさし雨の中へと出ていった。
 彼女が立ち去ると、青木は何事もなかったかのように、再び両手で鞄を抱きかかえるようにして雨天を見上げている。
 そこでふと我にかえり、薪は眉根を寄せた。
 何をしているんだ自分は。これでは、まるで覗き見だ。なぜ隠れる必要がある? 彼が誰の傘を借りようが、本人の自由だ。いくら自分が彼と付き合っているとはいえ、そこまで口出しする権利はない。
 姿勢を正すと、薪は玄関口へと歩き出した。近づく足音に気づいた青木が振り返る。
「薪さん!  今からお帰りですか?」
「ああ。お前は・・・帰らないのか?」
「いやあ、恥ずかしながら傘を忘れてしまって。仕方ないから雨の中を濡れて走って帰る覚悟だったんですが、いつまでたっても小降りにならなくて」
「・・・今、傘を貸してくれる子がいたじゃないか」
 青木の隣に立ち、けれど視線は前方に向けたままで薪は言った。
 すると青木は驚きも動揺もせず、いつも通りの穏やかな口調で笑って答える。
「なんだ、見てらっしゃったんですね。総務課の子です、第九の備品補充でいつもお世話になってて顔見知りで。見かねて親切に声をかけてくれたみたいです」
「なぜ、彼女の申し出を断ったんだ?」
 そう尋ねようとして、薪はあわてて声を飲み込んだ。そんなこと、どうでもいい。別に理由なんか知る必要もない。
「でも」
 軒先に立ち、自分の傘を開こうとした薪へ、青木が屈託なく笑いかける。
「俺が他の人と相合傘したら、薪さん、妬くでしょう?」
「・・・それはお前の方だろう」
「はい。俺は妬いちゃいます」
 素直に認め、また笑う。その隣で、ボン、と軽い音をたてて傘が開いた。
「じゃあ。これなら問題ないな」
 涼やかな声とともに、青木の頭上へ藍色の傘がさしかけられる。驚いて見返す青木に、薪は変わらぬ様子で口を結んだまま、当たり前のように傘を持つ手を高く差し伸べている。
「薪さん、あの。お気持ちは大変うれしいのですが。・・・まずいです、誰かに見られたら」
「まずいもんか。はたからは、お前が僕の太鼓持ちをしてるようにしか見えない」
「・・・・・・」
 的を得すぎていて、否定できない。
 無言で差し出され続けている傘へと、ようやく青木は手を伸ばす。
「ありがとうございます」
 傘の持ち手を、添えられた細い指ごと、そっと握り寄せる。束の間重ねられた手は名残惜しそうに離れ、青木は託された持ち手を握りなおした。
 では行きましょうかと声をかけつつ揃って歩を踏み出すと、軒先からはみ出た傘に弾ける雨粒が音をたてる。青木は隣の大切な人が濡れないよう慎重に傘を傾け、相手の歩調に合わせ歩き出す。
「そこの一番近いコンビニまでで結構です。傘、買っていきますんで」
「別に構わない、お前の家まで行ってやる」
「そこまでお世話になるわけには・・・雨足も強くなってきましたし、薪さんのお帰りが大変になりますよ」
「平気だ。明日の朝には上がってる」
「そうですか・・・って、え」
 首を大きく巡らせた拍子に手元が揺れ、傘から流れ落ちた水滴が二人に降りかかる。薪は顔をしかめ、艶やかな唇に付いた雫を舐めとった。
「お前はでかい図体して、傘もしっかり持てんのかっ」
「すっすいません。あの薪さん、今の」
「まったく・・・髪も服も濡れたじゃないか。お前の家で乾かせてもらうぞ」
 今度はつまずきそうになるのをこらえて傍らの人を見下ろすと、彼はしかめっ面のまま、白い額に張りついた一筋の前髪を払っている。
「はい」
 浮ついた声で返事をする青木はコンビニを通り過ぎたことにも気づかない。
 薪がちらりと視線を動かした先では、露先から滴る雨だれが大男の肩を広く濡らし、スーツに濃いシミをつくり続けている。
「・・・バカが」
「え? なんです?」
「なんでもない」
 小さな呟きを雨音に隠して。
 不思議そうな顔を前方へ戻す大男には気付かれぬよう少しだけ内側へ身を寄せて、薪は露先に触れさせた指を軽く、ちょんと押し上げた。

 -おしまい-
 

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052.「なんでもない日常」   (青薪)


 開け放した窓から吹き寄せる風は、思いがけず花の香をも運んでくる。
 植物には明るくないが、近くの公園で咲き始めた桜か沈丁花あたりだろうか。微かな芳香に誘われるように、自然と窓の外へ視線が向かう。
 風が揺らした前髪を、ふいに横から伸びてきた長い指が柔らかく摘んだ。
「髪、伸びましたね」
 その手と声の主を見やれば、えらく真面目な顔で、人の前髪をひと房つまみ眺めている。
「見にくくないですか? 目に悪いですよ」
 お互い読書に没頭していたはずが、さっきから妙に視線を感じると思えば、そんなことを考えていたのか。
 なんと返答すべきか一瞬迷うが、とりあえず思ったままの言葉を返す。
「別に」
「・・・本当ですか?」
 指は離したものの、こちらの顔を疑わしげに覗き込んでくる青木の前髪は、確かに僕よりは短い。
「切ってあげましょうか?」
「いらん」
「舞の髪も、少しなら俺が切り揃えてやってるんですよ。だから慣れてるんです、遠慮なさらず」
 しつこい。そもそも幼児の散髪と同等に扱うな。
 読書の気が削がれ、膝上の本を閉じる。改めて隣に座る大男を見上げると、休日のため軽く手ぐしで整えただけの前髪が幾房か額に落ちている。
「お前こそ、目にかかって邪魔そうだな。切ってやろうか」
「俺は普段は、ちゃんと上げてますから。平気ですよ」
「いっそ、もっと短くしてオールバックやめたらどうだ」
 今度は僕が青木の前髪をつまんでみる。整髪料をつけていない黒髪は思いのほか柔らかく、サラリと指の腹を滑っていく。
「二十前半の若造ならともかく、もう三十手前なんだから無理に老けて見せる必要もないだろう。前髪おろした方が年相応に見えるぞ」
「えー・・・」
 どうも気が乗らないらしく、困り顔で言い淀んでいる。こちらとしても、ふと思いつきで言ってみただけで押しつけるつもりもないが。
 しかしそんなに気に入ってるのか、あの地味で老けて見える髪型を?
「別に構いませんけど、でも・・・」
「でもなんだ」
「だって薪さん、そんな俺を見ても「す・・・」とか言いません?」
「・・・・・・」
「ちょ、なんでそこで顔そらして黙っちゃうんですかぁ!」
 嘘でも否定してくださいよっ、と情けない声が言うので、顔を背けたまま「嘘でもいいいのか?」と問えば、沈黙がおりる。
 振り向くと、拗ねたように口と眉を曲げた顔があり、くっ、と堪えきれず笑いが漏れる。
「もう、薪さん・・・」
 肩が震えてたから笑い堪えてるの分かってましたよ、と完全に拗ねた口調で言う青木の、広い額を小突く。
「バカ。眼鏡をとって前髪おろしたお前の顔、何回見てると思ってるんだ」
「でも、明るい場所ではあまりご覧になったことないでしょ?」
「僕は視力はいいんだ。お前と一緒にするな」
 もう一度小突くと、その手を青木が握りとる。そしておもむろに口を開き、真剣な顔つきで何を言うかと思えば、
「じゃあ薪さん、前髪、切りましょう」
「お前の?」
「いえ。薪さんの」
 何故そうなる?
「何が「じゃあ」だ。何の脈絡もないだろうが」
「俺が切ってさしあげますね」
 こちらの返答を待たずに青木は、いつにない素早さで卓上のペンスタンドからハサミを抜き取り、さらに卓上から取り上げた新聞紙を手際よく広げて僕の膝上へと乗せる。
 ・・・切るって、今?ここで?
「少しだけですから、あまり服には付かないと思いますし。あとで俺が掃除しますから」
 話しながら青木はソファから立ち上がり、座ったままの僕の正面へと移動する。
「青木。僕は別に・・・本当に全然気にならないし」
「いいからいいから」
 何がいいのかわからないが、長身をかがめて遠慮なく手を伸ばし前髪に触れてくる。こいつ、いつの間にこんなに図々しくなったんだ。
「青木。おい」
 もう一度名を呼ぶが、こちらの困惑など全く気にしない様子でハサミを握りなおした男は、にこりと笑った。
「さ、いきますよ」
「ちょっ、待て青木、やめ」
 慌てて制止の声をあげるが、僕の前髪に、それは既に触れていた。
 しゃき。という軽い音とともに、目の前を薄茶色の直線がパラパラ落下してゆく。その直線が自分の髪であることを、理解したくないがせざるを得ない。
「お前っ本当に切ったのか!?」
「だから切るって言ったじゃないですか」
 別に嘘だと思っていたわけじゃないが、まさかこんなにあっさりと、他人の髪を切るか普通?
「だって薪さん、抵抗しなかったから」
 確かに真っ当な抵抗をしなかった自分にも責任はないとも言い難いが      今この場には鏡がないため現状が分からない。このまま途中で放り出すのも、ある意味まずいか。
「じゃ、続けますね。目に入らないように、閉じていてください」
 僕が怒ってはいないことを承知しているかのように、青木は再び勝手に人の髪を切り始める。
 ありふれた紙切りハサミが、シャキ、シャキと音をたて僕の前髪を切り落としてゆく。 もう今更何を言っても仕方がないため、目を閉じて散髪が無事終わるのを待ちわびる。
 ふふっ、と小さな笑い声が降ってきたので、何だと訊くと。
「俺が薪さんの髪を切ってるなんて。人生、何が起こるかわからないなあと思って」
 直後、ハサミの音が止んだ。目を開けた先に見えたのは、満足げに笑む男の顔。
「出来上がりです!」
 声が弾んでいる。一体何がそんなに楽しいんだ。
「すっきりしましたよ。どうですか、視界が明るいでしょう?」
「・・・まあ、そう・・・か?」
「そんなに切ってませんよ。1センチ弱です。でも1センチって意外と大きいんですよねえ」
 言いながら青木は床に膝をつき、僕の肩や胸元から埃を払い落とすような仕草をする。下を向き自分の体を見やると、服に付着した細かな髪の切れ端を青木がまめまめしく払い、取り除いている。
「意外と、散らばっちゃいましたね」
「・・・そうだな・・・意外と」
「え?」
 手を止めて見上げてくる彼へ、笑いかける。
「意外と、視界が広がって見える」
「そうでしょう」
 ほら俺の言ったとおりでしょう?と言わんばかりの笑顔。いつもならば癪にさわるところだが、今は不思議と好ましい。
「前より、お前がはっきり近くに見える気がする」
 驚いたように目を丸くしたその表情は、すぐに面映ゆい笑顔へと変わる。僕も今、そんな顔をしているのかも知れない。
「おかしなもんだな、少し前髪切ったぐらいで」
「おかしくありませんよ。そういうことに無頓着すぎる薪さんに、俺が気付かせてあげたんですから」
「そうか」
「あ、ちょっと、何笑ってんですか。真面目に感謝して下さってます?」
「してるよ」
 何だろう。笑いがこみあげてきて、こらえきれずに、くっくっと喉から声がもれる。
 笑う僕を見ながら、どことなく不服げに溜息をつく青木が本当に怒っているわけでないことは、わかる。
「いい天気だな」
 窓の外へ視線を移すと、部屋に流れ込む風が、少し短くなった前髪を舞い上がらせる。
 不思議なものだと思う、実際。先刻からずっと晴れていたのに、まるで曇り空から突然太陽が顔を覗かせたかのような感覚を覚える。
「散髪日和ですねえ。また伸びて見にくいと思ったら、言ってください。俺が切ってあげますから」
「ああ」
 目の前のものが見にくくなっても。見えなくなり、見失っても。
 すぐにお前は、それを解消してくれるんだろう。いとも容易く、なんでもないことのように。

 例えば花の香りも。髪を揺らす風の心地よさも、空の青を眩く思うことさえ。
 ずっと気づきもしなかった、忘れていたはずなのに。今、僕はおのずと感じ取り、心を寄せている。
 それはきっと隣にお前がいるからだと口に出せば、さらに調子づくだろうから言ってやらないけれど。
「あれ、何だかいい香りがしますね。桜かな」
 犬のように、くん、と鼻を動かす青木の髪も風に遊ばれ、その口元は穏やかな笑みを浮かべている。
 お前がそんな顔をするなんて、そういえば以前の僕は知らなかった。お前は見せてくれていたのに。見ようとしなかったのは僕だ。

 まだ、僕に見えないものがあるとしても。きっと新たに見えるようになるんだろう。
 僕が今まで知らずにいた見方をも、お前が教えてくれるだろう。
 僕の隣に、お前がいてくれる限り     


 -おしまい-
 

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