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025.「ためらわない、迷わない」  (青薪)

 
 きつね色のトーストをかじり終えて二杯目のコーヒーを飲みほしても、まだ薪の瞼は半分落ちたままだった。
「薪さん、そろそろお時間ですよ」
「ああ……」
 青木の声に低く応えて、薪はテーブルに手をつき立ち上がる。いつも聡明な光を放つ瞳は、今はまだ覚醒しきれずに、薄いもやがかかったようにぼんやりとしている。
 カフェインの覚醒効果が発揮されるまで30分程度を要するという。朝食とコーヒーを摂り始めたのが15分前だから、彼が職場に到着する頃には完全に瞼が持ち上がっているだろうと予測して、青木は目の前をのろのろと通り過ぎる背中に声をかけた。
「後片付けは俺がやっておきますから。ご自分の支度をしてください」
 もはや口を開くのさえ億劫そうに頷いて、薪は壁際のハンガーからスーツの上着を取り外している。

 今朝の薪がこのような状態になっている原因は単純明快で、ただの寝不足だ。
 決して如何わしい理由によるものではなく、ゆえに青木が「お前のせいだ」と薪に責められる筋合いもない。
 マスコミをも賑わせた猟奇犯罪事件のMRI捜査が「第九」へ持ち込まれたのが三日前。室長の薪をはじめとする「第九」捜査員が連日総出で捜査にあたり、昨夜――正確には本日午前、ようやく事件は解決を迎えた。
 薪と青木が共に帰宅した時には午前二時を回っていた。順番にシャワーを浴びてパジャマに着替え、さあ寝ましょうかと青木が眠い目をこすりながら振り向けば、薪は煌々と明かりのついたリビングでソファに座り、やたら厚い書類をめくっている。今日の定例会議の資料へ目を通しておく必要があるらしく、促されるまま先に床についた青木は、すぐさま眠りに落ちてしまった。
 そして迎えた朝。青木が目覚めた時、隣には誰かが寝た痕跡すら無く、もしやと慌てて覗いたリビングでは、ソファに座ったまま眠り込んでいる薪の姿があった。

 結局何時まで起きていたのか問い詰めても薪は頑として口を割らないが、寝落ちして本当に覚えていないのかも知れない。
 だけど完全に寝不足状態なのは間違いない。せめて風邪をひいていないのが幸いだ。緩慢な動作で上着を羽織る薪を見ながら、青木は心配げに溜息を洩らした。

 二人一緒に暮らしてはいるが、当然ながら職場には伏せている。
 だから同伴出勤するわけにもいかず、さらに薪の出所時間は異常に早い。さすがに青木も「お先にどうぞ」と言うほかなく、薪を見送ってから自分も身支度を整えて家を出るという生活が日常化している。

「じゃあ、行ってくる」
「はい。お気をつけて」
 玄関へと向かう背中はいつも通りまっすぐだけれど、足取りがおぼつかなく見えるのは気のせいだろうか。
 ハラハラしつつ見送って、ふと青木が視線を向けた先のテーブル上に、一台のスマートフォンが置かれているのを目に留める。薪のスマートフォンだ。
「薪さんっ。薪さん、忘れ物です!」
 忘れ物を手に急いで玄関へ走り出ると、ちょうど靴を履き終えた薪がドアノブに手をかけたところだった。青木の声に反応して、相変わらずの半分ぼんやりした瞳で「……あ?」と訝しげに振り返る。
 けれどすぐに思い至ったように「ああ」と呟くと、体の向きを戻して青木へと近付いてくる。
 忘れ物を手渡すべく青木が差し出した右手を、なぜか薪の手は通り過ぎて、ちょうど眼前に垂れていた青木のネクタイを掴んだ。
 え?あれ?と疑問符を浮かべながらも首元にかかる力に成すがまま、青木は操り人形のように上半身を折る。それでも伝えなければと開いた口は、音を発する前に薪の唇に封じられた。
 何のためらいも迷いもなく押し当てられた唇は、青木が状況を理解する前にあっさり離れていく。
 呆けた顔で「……わ。わ、す、」と意味を成さない声を漏らす青木を見上げて、薪が小首をかしげる。
「違ったか?」
「違いません」
 即答する。
 ふ、と満足気な笑みをたたえた人は、ネクタイから手を離し、半分寝ぼけているとは思えない優雅な動作で扉を開けて姿を消した。

「あ。スマホ……」
 ようやく声に出せたが時すでに遅し。
 それよりも顔がめちゃくちゃ熱い。腰がくだけそうだ。確かに、ほぼ毎日のようにしてますけど。いってらっしゃいのキス。
 でもそれはいつも俺からで、薪さんからしてくれたのなんて初めてで、こんなことなら毎日寝不足になってもら……いやいや、彼の体調不良を願ってどうする、と慌てて邪な考えを追い払う。
「そうだ、スマホは……職場で渡せばいいか」
 ひとり呟いて、朝食の後片付けを済ませるべくキッチンへ向かう足取りは完全に浮つき、今にもスキップを踏み出しそうだ。
「今日は良い一日になりそうだなあ」
 頬を緩ませたまま、手早く身支度を終えて玄関に出る。ふふっと蕩けた笑い声が漏れる。昨夜までの激務が嘘のように、いつもより体も心も軽い。良い一日になりそうだ、と重ねて思う。
 けれど自分の向かう先に、圧倒的な恐怖――正気に戻って本当の忘れ物に気付いた薪の怒りが待ち受けていることを、彼はまだ知らない。


 終


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青木&薪(秘密)

第九時代に同棲してる設定な二人です。
最後ちょっと綺麗にまとめられず、ふざけて終わりました。だって薪さん絶対怒るし。
 
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テーマ:二次創作:小説 - ジャンル:小説・文学

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